私たちが戦後教育の中で教えられず、忘却の彼方に埋没する 「歴史的な事実」 の概略を学んでおきたいと思います。
1945年8月6日 米国による広島への原爆投下
1945年8月8日 「日ソ中立条約」 を一方的に破棄したソ連軍の侵攻により、ソ連・満州の国境守備の日本軍は壊滅的な打撃を受ける。
1945年8月9日 米国による長崎への原爆投下
1945年8月15日 ポツダム宣言を受諾して、敗戦・武装解除となった我が国に対して、米国の軍事攻撃は完全に終結しましたが、
ソ連だけがその後も攻撃を止めず満州で、樺太で、千島列島で、日本人は生命与奪の過酷な状況に晒されました。
ソ連軍の兵士達は正規軍よりも多数の囚人たちを軍隊として用いた事が、略奪・強姦・殺戮等の悲劇を増大させました。
さて、占守島の戦いは・・・8月18日にソ連労農赤軍が攻撃をして来た事から始まります。
常識的に考えれば、8月15日のポツダム宣言受諾・日本の降伏により連合国軍との一切の戦闘は終結しており、敗戦受諾国民への
意図的な 「軍事攻撃」 は、当時であっても国際法違反です。
ソ連のスターリンには、明白な北海道占領の野望がありました。
まさか、そんな事は無いと思う諸氏は、ドイツの東西分断、ベルリンを東西に隔てたベルリンの壁、朝鮮半島の北緯38度線で、
朝鮮半島が南北に分断された歴史的な事実を再認識していただきたいと思います。
それは、ソ連軍が日本が敗戦で倒れたその後から、北海道の 「留萌から根室を結ぶスターリンラインをソ連領土として奪い取る為」
の歴然とした侵略・侵攻でした。
この 「スターリンライン」 に関係する資料は、つきさっぷ郷土資料で見学する事が出来ます。
これを断固阻止したのが 北部軍管区司令官・樋口季一郎中将でした。
樋口季一郎中将は、ソ連の西隣国 ポーランドの公使館駐在武官勤務の経験からソ連の思惑 スターリンの野望を熟知していたと言われます。
占守島の戦いは、本来ならば戦闘行為が行われないはずの8月18日から21日にかけて行われました。
北海道をソ連占領から死守する為に毅然かつ断固たる 「戦闘指示」 を発したのが、樋口季一郎中将でした。
もしも、樋口季一郎中将の英断によるソ連軍の侵略に対する 「占守島 での自衛戦」 の足止めがなければ、北海道は「北・北海道(共産主義陣営)」「南・北海道(民主主義陣営)」に分断されていた事でしょう。
残念ながら、先人の築いた北方領土四島は、ソ連軍によって違法に奪われましたが 「北海道」 は本土として今日の姿を留める事が出来ました。
占守島の戦いで、命を賭して戦い彼の地に倒れた幾多の御霊に感謝の祈りを捧げたいと思います。