1997年1月 北海道大学医学部第一外科 教授に就任

藤堂省 神の手を持つ移植開拓者】

とうどう・さとる=北大教授。日本臓器移植ネットワーク「全方位型の支援体制」の一人。1947年生まれ。94年ピッツバーグ大教授。97年から現職。九大医学部卒。鹿児島県出身

 

 「まだ完全ではないが、ようやく胎動が始まった」。難産の末に199710月、臓器移植法が施行されて以来、米国での豊富な移植経験と実績をバックに、わが国の脳死移植定着の道を目指し、医学界、世論を引っ張る原動力としての役割を担ってきた。99年春以降、国内で行われた脳死肝移植ではすべて、臓器摘出チームの総括役を務め、移植に適した臓器かどうか最終判断も任された。

 臓器移植では世界トップレベルのピッツバーグ大で、教授にまで登りつめた実力の持ち主。世界で初めて肝臓移植を試みたスターズル博士とともに92年、ヒヒの肝臓を人間に移植するなど、おう盛なチャレンジ精神をバネに、世界の移植医療を引っ張ってきた。

 その人が96年夏、北大医学部教授会で教授に選ばれ、就任を受諾した時の周囲の驚きは大きかった。本場で脂が乗り切っているさなか、「移植途上国」に逆戻りするというのだから。

 「臓器移植法案が廃案になると聞いて、居ても立ってもいられなくなった。とにかく一刻も早く、日本で脳死移植を実現しなくてはと、使命感を感じた」

 帰国のきっかけは、胆道閉鎖症の子供を持つ母親から、海を越えて送られた一通の手紙。日本国内で移植ができない現状を訴える内容に、自ら開拓者になる決心をした。

 バイタリティーあふれる行動力は、九大医学部のラグビー部で培われたという。医師になってからも、患者の声に耳を傾けながら、迷いなく自分で道を切り開いてきたという自負が自らを支える。もともと肝臓外科医を志したのも、医師になって初めて書いた「死亡診断書」がきっかけ。その患者は肝硬変の患者だった。まだ30代で、しかも新婚。妻は初産を控えていた。死亡診断書を書きながら、肝臓病患者の「生きたい」という意思にこたえられる医師になろうと決めた。

 コロラド大からピッツバーグ大に移ったスターズル教授のもとに留学。真夜中には臓器摘出のため小型飛行機で飛び出し、手術室では連日のように移植に追われた。文字通り「寝る時間も惜しかった日々だった」。在米13年間で手がけた肝移植は1000例を超す。小腸移植も約100例。多臓器移植も数知れない。臓器摘出は400例に及ぶ。

 だれが言うともなく付けられたニックネームは「神の手」。本人によると、「これだけの数の手術をこなしていれば、うまくなるのは当然」。北大では、他の病院で成功率が低いために手術を断られた患者も引き受けてきた。少しでも救える可能性があれば、ベストを尽くす。「プロなんだから、救える患者を救うのは当たり前でしょう」。プロという言葉をよく口にするのは、実績に裏付けられた自信があるからだ。

 「米国では規則によって物事を運営するが、日本では規制によって決める」。日米の落差をこう表現する。医師仲間や厚生省、時には国会議員相手でも、率直に厳しい意見を述べることでも知られる。「時代が変われば、ルールは変わるのが当然。なのに、いろいろなしがらみに縛られ、昔のままのルールを変えない。それは医師として、患者に無責任じゃないか」

 順風満帆ともいえる米国での生活を捨てて飛び込んだ開拓者の道のりは、決して平たんではない。制約の多い脳死での臓器提供などに代表されるように、自由度の低いわが国の移植を取り巻く状況。そのもどかしさを「両手を縛られたまま泳いでるようだ」とたとえ、表情を曇らせる。 それでも、帰国したことに後悔はない。少しずつだが、日本の社会も変わっているという実感があるからだ。「3年前、九州で講演した際、マスコミから出た質問は『脳死は人の死ですか』だった。今は脳死は一定の理解を得つつある」

 「死」の定義を変え、それに合わせて社会システムを変えていこうとすれば、必ず反発があり時間もかかる。アメリカでは、移植医療が「特殊な医療」でなくなるまでに20年かかった。「日本では10年ぐらい」と予測する。動き出した移植医療が、10年後にはどんな実を結ぶのか。国内の移植医療が遅れた要因のひとつに、68年の和田心臓移植がある。一歩踏み間違えば、脳死移植が遠のく可能性も否定できない。「神の手」が導く道に視線を合わせたい。

(本間 雅江)


  2011年3月18日  藤堂先生 最終講義